雪花の日記です
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新年早々妙なことを漠然と延々と考えていました。
ちょっと性的なおはなしになりますので苦手な方は御遠慮を。
「僕は妹に恋をする」っていうまんがが
まつじゅん主演で映画になりますよね。
読んだことありませんが双子の兄妹が主人公の
所謂「禁断の恋」ものだったと記憶しています。
彼のインタビュウ記事が雑誌に出ていて、それを読んだのですが…
王子様的な憧れを押しつけられることも売れる要素のひとつが
顔である彼らならよくあることだろうと思いますが、
彼は「男である以上は王子様でい続けられるわけがない」と
素直に仰っていました。
愛情レベルがどの程度かという問題は今のところはさておいて、
異性に対し性欲がわきあがることは当たり前にあることです。
現実には綺麗事の恋愛で延々幸せでいられるわけではないと。
それが叶うのが夢小説の夢たる所以です、と一行脱線しまして…
男性が性的欲求を持つのが当たり前であると同時に
女性が性的欲求を持つのも当たり前ですけど…
それでね、まず議題としての問題は、
どうして兄と妹でのセックスは許されないんだろうというところです。
兄と妹に限らず、
血の繋がった人・近い人同士の関係が禁じられるのはなぜか?
近親婚の夫妻のあいだに子どもができた場合、
赤の他人同士のあいだに子どもができる場合と比べて
その子どもになんらかのかたちで身体障害があらわれる、
思考能力の成長が著しく遅い・止まってしまうなどの可能性が
高くなってしまうからという理由を
雪花の思考回路はまずはじき出しました。
世間でもよく言われることですし、それはわかります。
でもそうじゃなくて…
つまりね、世間でどうこうでなくて、常識でどうこうでもなくて、
法律で、一般論で、ではなくて。
本題としての問題は、
私の思考回路がそれを禁じる理由は何かってことなのです。
だから別に近親間での恋愛・結婚・セックスの問題でなくても
ホントはまったく構わないのです。
世間がダメと言ったらダメ、法律がダメと言ったらダメ、
じゃあ同じ社会に属する私もそこに従いそれをダメだと言いましょう、
それは集団社会で暮らしていくために必要な
暗黙の決まりのひとつですからそれでいいとは思うのです。
ある程度の制限がなくては成り立っていかない部分はあるでしょう。
そして恐らくそれが今回の議題にまさに反映されたのだと思いますが、
とりあえず私が兄妹でえっちしちゃいけませんと答えを出したのは、
普通そういうものだから、という理由に過ぎないのですね。
普通そういうものだから他の人は避けて通ろうとする道なのよ、
じゃあ私も避けときましょうよ、そのほうが安全みたいよと。
その結論に達するまでに私自身が考えた、という経過がないのです。
結果的には、近親間での性行為には問題があるだろう、という方向で
私の考えも落ち着きそうな気がするのです。
それはそれとして、では普通そういうものだからという先入観を
捨てた上で私自身の感情と独断と偏見に著しく偏った考えを
展開した場合、私の脳みそはどういう答えを出すのだろうかという
思考の実験を試みました。
感情至上主義でいけば、相手が兄だろうが妹だろうが
愛する人と結ばれてはいけないというのは不条理な気がします。
好きになった相手がたまたま血の繋がった人だったのよというのは
決めゼリフとしてもよく聞きますがある意味では真理なのでしょう。
特に私のような自分がいちばん大事、それに正直でありましょうという
信条を掲げる人間は、自分の正義に反しさえしなければ
言動することに躊躇をしないと思います。
自分が後悔しないで済む道を選ぶことでしょう。
となれば、愛を貫いて結果いきつくところまでいってしまうことが
正解だと思います。
悩むのは、あなたのやっていることは間違いだと指摘する存在が
自分の外にあるためでしょう。
世間一般の考え、多数決の多数という先入観をきれいさっぱり
取っ払って考えたら、兄妹でも禁断なんかじゃありません。
その愛情の結果、たとえば障害を持った子どもが生まれてきたとして、
障害を持つ子どもの何が悪いというのか…
自分に妊娠から子育てに至るまでの経験はありませんので
これこそ一般論と想像の範囲ばかりで申し上げており
矛盾が生じる気がしますが、障害を持つ子どもが生まれてくることに
問題があるという、またこれも先入観ですが、それがあるからこそ
広くいわれる「ダメ」の理由になってしまうような気もします。
親が苦労するから、
健常者とのあいだにどうしても出てくる差に子ども自身が苦しむから、
だからその命はダメ、ではないはずです。
これもまた理想と綺麗事でしょうが。
差別の意味で言うのではありませんが
ともすればそう聞こえることを申し上げます、
健常者という言葉も得意ではありませんが、
障害を持つ人とそうでない人のあいだに確実に差はあるのです。
どうしても埋めようのない差は大なり小なりあるのです。
それが溝となり、なんとなく寄り添えないままで
遠慮したような距離を測りかねているような曖昧な関係のまま
表向き平和な顔をしてやっていくことが平等とは思いません。
障害のある人とない人とがいて、お互いそれを知っていて、
その差も知って認めていて、それで当たり前と思えることが
理想のはずです。
障害のあるなしで出てくる差にしても、障害のない人間のほうが
優れているという比較による結論があるのがおかしくはありませんか?
今の社会が呼ぶ障害というものを、「障害」と名付けてしまったことが
引っかかりになっているのではないでしょうか。
つまり、雪花はものすごい運動音痴で足が遅いのですけど、
雪花より足が速い子は当然いっぱいいました。
雪花の走るのが遅いことと、「障害」があることは要は同じなのです。
できることとできないことと、身体能力や思考能力の差があり、
それが目に見えるか見えないか、知り得るか否かということなのです。
ときどき誰かに勝り、ときどき誰かに劣る。
そしてそれは当たり前のこと。
雪花が足が遅かったからってだからどうしたという話です。
足の速い子とのあいだにある、埋めようのない差です。
そういうものであるべきではないですか、どんな人でも?
私たちは違うから、扱いも違うべきよねという社会が
組み上がってしまったあとでそこに最初から生まれてきてしまったため、
一生懸命考えてみている私の根底にも差別の感情はあるのです。
自分という人間が情けなくなるのはこういう一面を認める瞬間です。
ここで正直者のレッテルをもらって励まされると困りますが。
どうしたらいいのかを自分の思考回路で辿ることを頑張ってみている、
まだ結果は出ていないけれど今よりいい道を探しているという、
努力というにはおこがましいですけれど、それでほんの少し、
言うなれば罪の償いになるならいいといつも思います。
話がどんどんずれましたが…
いろいろな人にはいろいろな結論持論があって然りですが、
それが必ず自分の思考を経た結果であるかどうかは別問題のようです。
人が言っていた影響を受けてさも自分の考えであるかのように
言うこともまた当たり前のことでしょう。
大体にして、自分が影響を受けた相手すらも
誰かから聞いて喋っていたりするものでしょうし。
誰が最初の発案者で、きちんとした思考を経てくれたのかまでは
辿れませんが、それが私でないのはどうも確実の様子です。
そういう外部からの影響となりうるすべての情報を捨ててしまい、
問題だけ残して自分の考えだけで考えていったら、
少し自分の好みや傾向みたいなものが見える気がします。
ときどき私はそうやってすべての枷を取っ払って考えを暴走させてみて、
自分だったらどうするかという空想に耽ります。
それを全部聞いてくれるのがミオさんなのですが、
今日は彼は寝てしまったので…日記が餌食になりました。
思えば彼も可哀相。
めんどくさい娘を持ちましたよね。
人の話を聞くのってすごく疲れるじゃありませんか?
でもちゃんと聞いてくれる上、望んだ以上の答えが返ってくる。
娘としては、この父でよかった、なのですよ。
なので、自発の考えだけでいうのなら、
愛情そのものに嘘さえなければ兄妹間でセックスをしてもいい、
という結論に達しました。
血が繋がっているという条件の違いがあるだけで、
兄と妹でもなんでも、人間一人一人ですという考えのようです。
ただ行動に対する結果について、
責任を放棄することはその分許されません。
でも、それは相手が誰であっても同じことが言えるはずです。
だから、赤の他人同士の恋愛と何ら違いはありません。
ただアレです、これはあくまで雪花個人の考えですから、
実際に周りに禁じられた恋愛をしている方への許可ではないのです。
もしお読みの方に万一そんな方がいらしたとして。
苦しい恋ですね。
心からの想いを、社会中が先入観を持っているからという理由で
押し殺さなくてはならないのなら。
余談ですが、こういうお話の場合、
救いがあっては解決にならない気がします。
現実ではなく物語の場合ですよ。
だから先述のまんがも実は兄妹じゃなかったとかいう
展開が待っていたとしたなら個人的には興醒めです。
物語を作る人は、苦しいところでは偶然の奇跡に頼っちゃいけません。
たぶん。
選択肢としてはそういう展開もありですが、ちょっと甘いです。
苦しくても死にそうでも現実見て生きろと。
「14歳の母」というドラマがそういう意味で圧巻だったようです。
例によって見ていませんが。
見ていないものについてそもそも語るなという…
で、ここへきて新たな問題が発生してしまいます。
だいぶ上の方で、自分としての結論はそれでも近親間のセックスは
問題であるという方向に落ち着きそうだと言っているのに、
どうしてそこに辿り着けたものだかがわからなくなってしまったのです。
つまり、ここまでの自分の熱弁に自分が説得されてしまったの…
兄と妹でもいいじゃんって思っちゃってる…
それはね、周りに問題が起こるからダメだってことだと思うのですよ。
それはね、関係ないと思うのですよ。
そしてね、どう考えても自発の考えではないと思うのですよ。
周りなんてどうでもいいじゃんという本音がどこかにはあり…
たとえば家族が反対するなら家族と離れればいい、
理解者がいないなら一人で戦えばいい、
そういう方向に流れつつあります。
責任をとらないこと、行動しないことだけが許されないのです。
言い訳をせず自分の思うとおりにだけ動くことができる、
これも理想論でしょうから滅多にはできることじゃありませんね。
これでは張りつめっぱなしで苦しいでしょう。
人間はときどき、張りつめた糸も切ってやらなきゃいけません。
だから、近親間の愛を貫いた結果苦しい苦しい状況に
追い込まれたあとで、責任も行動も求めはするけれど、
逃げることも、許さなければ。
うううん難しい
私がダメだよと言うのは、保身の念によるものなのでしょうね。
トラブルが多そうな道は最初から避けなさいというだけのことで。
ただ、何もかもの枷を取っ払って考え、導かれた結論を実際に社会で
行動に移すのは少し筋違いになります。
社会は枷だらけです。
だから、拘束のない本当に自由な考えを自分の中に探す試みは、
やってもいい。
でもそれは現実社会での問題をクリアしたことにはなりません。
本当の解決は、自分の考えを知ったあとで更に、
社会の枷を考慮に入れて考えた結果を導いた先にあるはずです。
本題としての問題、私の思考回路がそれを禁じる理由は何か…
結論、私個人の束縛を受けない自由な思考回路は、
それを禁じていない。
けれど私の思考回路が完成されたものでは到底あり得ないという
根本的な問題を、忘れてはいけない。
ちょっと性的なおはなしになりますので苦手な方は御遠慮を。
「僕は妹に恋をする」っていうまんがが
まつじゅん主演で映画になりますよね。
読んだことありませんが双子の兄妹が主人公の
所謂「禁断の恋」ものだったと記憶しています。
彼のインタビュウ記事が雑誌に出ていて、それを読んだのですが…
王子様的な憧れを押しつけられることも売れる要素のひとつが
顔である彼らならよくあることだろうと思いますが、
彼は「男である以上は王子様でい続けられるわけがない」と
素直に仰っていました。
愛情レベルがどの程度かという問題は今のところはさておいて、
異性に対し性欲がわきあがることは当たり前にあることです。
現実には綺麗事の恋愛で延々幸せでいられるわけではないと。
それが叶うのが夢小説の夢たる所以です、と一行脱線しまして…
男性が性的欲求を持つのが当たり前であると同時に
女性が性的欲求を持つのも当たり前ですけど…
それでね、まず議題としての問題は、
どうして兄と妹でのセックスは許されないんだろうというところです。
兄と妹に限らず、
血の繋がった人・近い人同士の関係が禁じられるのはなぜか?
近親婚の夫妻のあいだに子どもができた場合、
赤の他人同士のあいだに子どもができる場合と比べて
その子どもになんらかのかたちで身体障害があらわれる、
思考能力の成長が著しく遅い・止まってしまうなどの可能性が
高くなってしまうからという理由を
雪花の思考回路はまずはじき出しました。
世間でもよく言われることですし、それはわかります。
でもそうじゃなくて…
つまりね、世間でどうこうでなくて、常識でどうこうでもなくて、
法律で、一般論で、ではなくて。
本題としての問題は、
私の思考回路がそれを禁じる理由は何かってことなのです。
だから別に近親間での恋愛・結婚・セックスの問題でなくても
ホントはまったく構わないのです。
世間がダメと言ったらダメ、法律がダメと言ったらダメ、
じゃあ同じ社会に属する私もそこに従いそれをダメだと言いましょう、
それは集団社会で暮らしていくために必要な
暗黙の決まりのひとつですからそれでいいとは思うのです。
ある程度の制限がなくては成り立っていかない部分はあるでしょう。
そして恐らくそれが今回の議題にまさに反映されたのだと思いますが、
とりあえず私が兄妹でえっちしちゃいけませんと答えを出したのは、
普通そういうものだから、という理由に過ぎないのですね。
普通そういうものだから他の人は避けて通ろうとする道なのよ、
じゃあ私も避けときましょうよ、そのほうが安全みたいよと。
その結論に達するまでに私自身が考えた、という経過がないのです。
結果的には、近親間での性行為には問題があるだろう、という方向で
私の考えも落ち着きそうな気がするのです。
それはそれとして、では普通そういうものだからという先入観を
捨てた上で私自身の感情と独断と偏見に著しく偏った考えを
展開した場合、私の脳みそはどういう答えを出すのだろうかという
思考の実験を試みました。
感情至上主義でいけば、相手が兄だろうが妹だろうが
愛する人と結ばれてはいけないというのは不条理な気がします。
好きになった相手がたまたま血の繋がった人だったのよというのは
決めゼリフとしてもよく聞きますがある意味では真理なのでしょう。
特に私のような自分がいちばん大事、それに正直でありましょうという
信条を掲げる人間は、自分の正義に反しさえしなければ
言動することに躊躇をしないと思います。
自分が後悔しないで済む道を選ぶことでしょう。
となれば、愛を貫いて結果いきつくところまでいってしまうことが
正解だと思います。
悩むのは、あなたのやっていることは間違いだと指摘する存在が
自分の外にあるためでしょう。
世間一般の考え、多数決の多数という先入観をきれいさっぱり
取っ払って考えたら、兄妹でも禁断なんかじゃありません。
その愛情の結果、たとえば障害を持った子どもが生まれてきたとして、
障害を持つ子どもの何が悪いというのか…
自分に妊娠から子育てに至るまでの経験はありませんので
これこそ一般論と想像の範囲ばかりで申し上げており
矛盾が生じる気がしますが、障害を持つ子どもが生まれてくることに
問題があるという、またこれも先入観ですが、それがあるからこそ
広くいわれる「ダメ」の理由になってしまうような気もします。
親が苦労するから、
健常者とのあいだにどうしても出てくる差に子ども自身が苦しむから、
だからその命はダメ、ではないはずです。
これもまた理想と綺麗事でしょうが。
差別の意味で言うのではありませんが
ともすればそう聞こえることを申し上げます、
健常者という言葉も得意ではありませんが、
障害を持つ人とそうでない人のあいだに確実に差はあるのです。
どうしても埋めようのない差は大なり小なりあるのです。
それが溝となり、なんとなく寄り添えないままで
遠慮したような距離を測りかねているような曖昧な関係のまま
表向き平和な顔をしてやっていくことが平等とは思いません。
障害のある人とない人とがいて、お互いそれを知っていて、
その差も知って認めていて、それで当たり前と思えることが
理想のはずです。
障害のあるなしで出てくる差にしても、障害のない人間のほうが
優れているという比較による結論があるのがおかしくはありませんか?
今の社会が呼ぶ障害というものを、「障害」と名付けてしまったことが
引っかかりになっているのではないでしょうか。
つまり、雪花はものすごい運動音痴で足が遅いのですけど、
雪花より足が速い子は当然いっぱいいました。
雪花の走るのが遅いことと、「障害」があることは要は同じなのです。
できることとできないことと、身体能力や思考能力の差があり、
それが目に見えるか見えないか、知り得るか否かということなのです。
ときどき誰かに勝り、ときどき誰かに劣る。
そしてそれは当たり前のこと。
雪花が足が遅かったからってだからどうしたという話です。
足の速い子とのあいだにある、埋めようのない差です。
そういうものであるべきではないですか、どんな人でも?
私たちは違うから、扱いも違うべきよねという社会が
組み上がってしまったあとでそこに最初から生まれてきてしまったため、
一生懸命考えてみている私の根底にも差別の感情はあるのです。
自分という人間が情けなくなるのはこういう一面を認める瞬間です。
ここで正直者のレッテルをもらって励まされると困りますが。
どうしたらいいのかを自分の思考回路で辿ることを頑張ってみている、
まだ結果は出ていないけれど今よりいい道を探しているという、
努力というにはおこがましいですけれど、それでほんの少し、
言うなれば罪の償いになるならいいといつも思います。
話がどんどんずれましたが…
いろいろな人にはいろいろな結論持論があって然りですが、
それが必ず自分の思考を経た結果であるかどうかは別問題のようです。
人が言っていた影響を受けてさも自分の考えであるかのように
言うこともまた当たり前のことでしょう。
大体にして、自分が影響を受けた相手すらも
誰かから聞いて喋っていたりするものでしょうし。
誰が最初の発案者で、きちんとした思考を経てくれたのかまでは
辿れませんが、それが私でないのはどうも確実の様子です。
そういう外部からの影響となりうるすべての情報を捨ててしまい、
問題だけ残して自分の考えだけで考えていったら、
少し自分の好みや傾向みたいなものが見える気がします。
ときどき私はそうやってすべての枷を取っ払って考えを暴走させてみて、
自分だったらどうするかという空想に耽ります。
それを全部聞いてくれるのがミオさんなのですが、
今日は彼は寝てしまったので…日記が餌食になりました。
思えば彼も可哀相。
めんどくさい娘を持ちましたよね。
人の話を聞くのってすごく疲れるじゃありませんか?
でもちゃんと聞いてくれる上、望んだ以上の答えが返ってくる。
娘としては、この父でよかった、なのですよ。
なので、自発の考えだけでいうのなら、
愛情そのものに嘘さえなければ兄妹間でセックスをしてもいい、
という結論に達しました。
血が繋がっているという条件の違いがあるだけで、
兄と妹でもなんでも、人間一人一人ですという考えのようです。
ただ行動に対する結果について、
責任を放棄することはその分許されません。
でも、それは相手が誰であっても同じことが言えるはずです。
だから、赤の他人同士の恋愛と何ら違いはありません。
ただアレです、これはあくまで雪花個人の考えですから、
実際に周りに禁じられた恋愛をしている方への許可ではないのです。
もしお読みの方に万一そんな方がいらしたとして。
苦しい恋ですね。
心からの想いを、社会中が先入観を持っているからという理由で
押し殺さなくてはならないのなら。
余談ですが、こういうお話の場合、
救いがあっては解決にならない気がします。
現実ではなく物語の場合ですよ。
だから先述のまんがも実は兄妹じゃなかったとかいう
展開が待っていたとしたなら個人的には興醒めです。
物語を作る人は、苦しいところでは偶然の奇跡に頼っちゃいけません。
たぶん。
選択肢としてはそういう展開もありですが、ちょっと甘いです。
苦しくても死にそうでも現実見て生きろと。
「14歳の母」というドラマがそういう意味で圧巻だったようです。
例によって見ていませんが。
見ていないものについてそもそも語るなという…
で、ここへきて新たな問題が発生してしまいます。
だいぶ上の方で、自分としての結論はそれでも近親間のセックスは
問題であるという方向に落ち着きそうだと言っているのに、
どうしてそこに辿り着けたものだかがわからなくなってしまったのです。
つまり、ここまでの自分の熱弁に自分が説得されてしまったの…
兄と妹でもいいじゃんって思っちゃってる…
それはね、周りに問題が起こるからダメだってことだと思うのですよ。
それはね、関係ないと思うのですよ。
そしてね、どう考えても自発の考えではないと思うのですよ。
周りなんてどうでもいいじゃんという本音がどこかにはあり…
たとえば家族が反対するなら家族と離れればいい、
理解者がいないなら一人で戦えばいい、
そういう方向に流れつつあります。
責任をとらないこと、行動しないことだけが許されないのです。
言い訳をせず自分の思うとおりにだけ動くことができる、
これも理想論でしょうから滅多にはできることじゃありませんね。
これでは張りつめっぱなしで苦しいでしょう。
人間はときどき、張りつめた糸も切ってやらなきゃいけません。
だから、近親間の愛を貫いた結果苦しい苦しい状況に
追い込まれたあとで、責任も行動も求めはするけれど、
逃げることも、許さなければ。
うううん難しい
私がダメだよと言うのは、保身の念によるものなのでしょうね。
トラブルが多そうな道は最初から避けなさいというだけのことで。
ただ、何もかもの枷を取っ払って考え、導かれた結論を実際に社会で
行動に移すのは少し筋違いになります。
社会は枷だらけです。
だから、拘束のない本当に自由な考えを自分の中に探す試みは、
やってもいい。
でもそれは現実社会での問題をクリアしたことにはなりません。
本当の解決は、自分の考えを知ったあとで更に、
社会の枷を考慮に入れて考えた結果を導いた先にあるはずです。
本題としての問題、私の思考回路がそれを禁じる理由は何か…
結論、私個人の束縛を受けない自由な思考回路は、
それを禁じていない。
けれど私の思考回路が完成されたものでは到底あり得ないという
根本的な問題を、忘れてはいけない。
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