雪花の日記です
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この世界には絶対的な支配者、仮に神様と呼ぶとして、がいます。
神様は自分に似せて、命があるような人形を造形するわけです。
神様の所作に惚れ惚れとした一介の人間がそれを真似て
やはり人形を作るわけですが、それは真実生きているとは言い難い。
生きていたとして電池が切れたら黙り込むような命です。
神様は自分の手による人形を、
自分の手によるドラマという名前のレールに乗せて動かし、
人間の目を楽しませます。
やっぱり人間はそれを真似てドラマを作り人形を動かそうとしますが、
その楽しみの質はまったく異なるものです。
それはわかっていて人間はそれでもやめられません、
ニセモノでも楽しいと言ってくれる人がいることはいるので。
その言葉に調子に乗って人間は切磋琢磨としたつもりで
人形を造形し続けるわけですが、
あるときそれがあまりに思惑と外れていることに気付かされます。
いつの間にか神様への憧れという最初の純粋な感情が、
人間のまったくの自己満足というものにすり替わっていたのです。
人間は驕ったつもりで造形を続けていたつもりはありませんでした。
けれど自分でも気付かぬうちに、
神様の所作に対する愛情が、自分のニセモノを楽しんでくれる誰かへの
愛情に変わってしまっていました。
それを堂々と宣言してもいました。
それ自体は悪いことではないはずです。
でも人間は疑問を抱かずにいられません。
なにか違うんじゃないかなあ、と。
ところで人間は、自分が真実神様となれる世界を別に持っていました。
それでも人間は神様のしつらえた舞台に上がっていくことを好みます。
その人間が持つ世界は、その人間本人だけが知る世界です。
自己満足で楽しむにしても舞台が小さすぎるのでした。
器に見合わない名声を得たいと、
そんなつもりはなくてもそうなのかもしれません。
ここまで考えて、人間はちょっと苦しくなってきました。
二次創作やる意味がこんがらがってきたわ、と。
------------------------------------------------
所詮人間は神様になれず、神様を真似て本物に近づくこともできず。
このサイトにいる某人間、それをわかっててやってはいます。
でも思うのです。
神様への愛情が嘘に見えてくるのは苦しいな、などと。
スタート地点を見失っているのがいやなのです。
それが「StrangeChildrenの蔵馬像」ができあがりつつあるのがいや、
という言葉になって出てきました。
創作とは自分との対話です、そこを経て次段階が受信者との対話。
経験を重ねて考え方に変遷があるのはいいのです。
でも、一番最初にあった動機は、
愛情という名前のいちばん穢れない綺麗な気持ちだったはず。
もともとオリジナルをやっていた立場だから
尚のことその傾向に陥りやすいと言えますが、
愛情に自分の創作を掘り下げる行為が荷担し始めました。
目的がすり替わり、愛情は変わりなくあるはずだけれど
勘違いに近い状態になりつつあります。
二次創作や同人活動ってお気楽、
そもそもの創作者のことなんて知らない、
私楽しいからそれでいいやって雪花は言えません。
他の人がみんなそう言ってるというわけじゃないですよ。
でもそういう風潮が漠然と、全体的にあるのは否めない。
冨樫先生が黙っているのをいいことに好き勝手やってごめんなさい、
ごめんなさいと言いながらやめようとしなくてごめんなさい、
謝って表向きいい子ぶった振りしています、
それでもやっていることは他の誰とも何とも変わらないです、
わかっていてやめられません、それでも他に言葉がありません、
ごめんなさい、とにかくとにかく、
という感じなのです。
二次創作でも確かに自分の創作であることに違いはなく、
ある部分では著作権を主張することすらもできることはできる
(当然だけど偉そうに言える立場じゃない、本来言えなくて当然)。
そういう視点から行けば、独自のキャラクタ像ができていても
許容範囲でしょうと雪花も言えます。
でも雪花はひとつの視点からものの姿が見えると思わない。
できる限り考え得るすべての可能性を考えた上で、
自分が納得するところだけを拾い上げて自分の持論を組み上げます。
だから、
ある場合にはそれは許容範囲でも、気持ちではいい印象持てないな
というとっても曖昧な考えをときに大事にしたりします。
こんな考え方があるなら二次やる必要どこにあるのでしょう、
それを考えるとやっぱり愛情という原点に還るのではありますが。
最後にね、作品に対して寄せられた言葉というものは、
その内容が良かれ悪しかれみんな批評です。
自分にとって甘い言葉でも苦い言葉でも、
受け取った人はそう思ったのだということですから。
おおよそは思ったところで終わるのが普通だと思いますが、
それをわざわざ伝えてくださったというところに、
書き手として感じ入るものがありたいと思っています。
行動して見せてくださるということこそが、
自分がその人に批評されたということの現れとも言えます。
商売ではなく書いている自分には言い訳や反論が許されます。
そこに甘えるわけではないけれど、
更に重ねてお伝えしたいこともあったりするから。
うん、うざったくってごめんなさい。
考えが思いつくと作品じゃなくてもそれも書きたくなる、
結局雪花が最後に行動に移すとき、それは「書く」というものになる。
神様は自分に似せて、命があるような人形を造形するわけです。
神様の所作に惚れ惚れとした一介の人間がそれを真似て
やはり人形を作るわけですが、それは真実生きているとは言い難い。
生きていたとして電池が切れたら黙り込むような命です。
神様は自分の手による人形を、
自分の手によるドラマという名前のレールに乗せて動かし、
人間の目を楽しませます。
やっぱり人間はそれを真似てドラマを作り人形を動かそうとしますが、
その楽しみの質はまったく異なるものです。
それはわかっていて人間はそれでもやめられません、
ニセモノでも楽しいと言ってくれる人がいることはいるので。
その言葉に調子に乗って人間は切磋琢磨としたつもりで
人形を造形し続けるわけですが、
あるときそれがあまりに思惑と外れていることに気付かされます。
いつの間にか神様への憧れという最初の純粋な感情が、
人間のまったくの自己満足というものにすり替わっていたのです。
人間は驕ったつもりで造形を続けていたつもりはありませんでした。
けれど自分でも気付かぬうちに、
神様の所作に対する愛情が、自分のニセモノを楽しんでくれる誰かへの
愛情に変わってしまっていました。
それを堂々と宣言してもいました。
それ自体は悪いことではないはずです。
でも人間は疑問を抱かずにいられません。
なにか違うんじゃないかなあ、と。
ところで人間は、自分が真実神様となれる世界を別に持っていました。
それでも人間は神様のしつらえた舞台に上がっていくことを好みます。
その人間が持つ世界は、その人間本人だけが知る世界です。
自己満足で楽しむにしても舞台が小さすぎるのでした。
器に見合わない名声を得たいと、
そんなつもりはなくてもそうなのかもしれません。
ここまで考えて、人間はちょっと苦しくなってきました。
二次創作やる意味がこんがらがってきたわ、と。
------------------------------------------------
所詮人間は神様になれず、神様を真似て本物に近づくこともできず。
このサイトにいる某人間、それをわかっててやってはいます。
でも思うのです。
神様への愛情が嘘に見えてくるのは苦しいな、などと。
スタート地点を見失っているのがいやなのです。
それが「StrangeChildrenの蔵馬像」ができあがりつつあるのがいや、
という言葉になって出てきました。
創作とは自分との対話です、そこを経て次段階が受信者との対話。
経験を重ねて考え方に変遷があるのはいいのです。
でも、一番最初にあった動機は、
愛情という名前のいちばん穢れない綺麗な気持ちだったはず。
もともとオリジナルをやっていた立場だから
尚のことその傾向に陥りやすいと言えますが、
愛情に自分の創作を掘り下げる行為が荷担し始めました。
目的がすり替わり、愛情は変わりなくあるはずだけれど
勘違いに近い状態になりつつあります。
二次創作や同人活動ってお気楽、
そもそもの創作者のことなんて知らない、
私楽しいからそれでいいやって雪花は言えません。
他の人がみんなそう言ってるというわけじゃないですよ。
でもそういう風潮が漠然と、全体的にあるのは否めない。
冨樫先生が黙っているのをいいことに好き勝手やってごめんなさい、
ごめんなさいと言いながらやめようとしなくてごめんなさい、
謝って表向きいい子ぶった振りしています、
それでもやっていることは他の誰とも何とも変わらないです、
わかっていてやめられません、それでも他に言葉がありません、
ごめんなさい、とにかくとにかく、
という感じなのです。
二次創作でも確かに自分の創作であることに違いはなく、
ある部分では著作権を主張することすらもできることはできる
(当然だけど偉そうに言える立場じゃない、本来言えなくて当然)。
そういう視点から行けば、独自のキャラクタ像ができていても
許容範囲でしょうと雪花も言えます。
でも雪花はひとつの視点からものの姿が見えると思わない。
できる限り考え得るすべての可能性を考えた上で、
自分が納得するところだけを拾い上げて自分の持論を組み上げます。
だから、
ある場合にはそれは許容範囲でも、気持ちではいい印象持てないな
というとっても曖昧な考えをときに大事にしたりします。
こんな考え方があるなら二次やる必要どこにあるのでしょう、
それを考えるとやっぱり愛情という原点に還るのではありますが。
最後にね、作品に対して寄せられた言葉というものは、
その内容が良かれ悪しかれみんな批評です。
自分にとって甘い言葉でも苦い言葉でも、
受け取った人はそう思ったのだということですから。
おおよそは思ったところで終わるのが普通だと思いますが、
それをわざわざ伝えてくださったというところに、
書き手として感じ入るものがありたいと思っています。
行動して見せてくださるということこそが、
自分がその人に批評されたということの現れとも言えます。
商売ではなく書いている自分には言い訳や反論が許されます。
そこに甘えるわけではないけれど、
更に重ねてお伝えしたいこともあったりするから。
うん、うざったくってごめんなさい。
考えが思いつくと作品じゃなくてもそれも書きたくなる、
結局雪花が最後に行動に移すとき、それは「書く」というものになる。
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